黒い箱
ガールズバーみたいなところの控え室に1人でいる。
友達はいなくなっちゃって、閉じ込められた箱みたいなところにぽつんと、いる。
黒い箱のような部屋にいると、孤独の中で生きていると実感する。最近日記を更新していない。
いつも同じ心でい続けるということがどれほど難しいことなのか、対処の仕方がわたしにはずっとわからない。
あの子はいつも明るくて、目の前のことしか考えてないような態度なのに本当はしっかりしてて凄いと思った。わたしは、いつでもわたしにまっすぐすぎて何も正しいことができない気がする。色んな意見を聞きすぎると、人は正解が何なのか分からなくなる生き物だと思うのだ。
周りを受け入れすぎて、自分を許せなくなって、自分に嘘をついて、悲しまないように生きてるのに絶対にそれができなくていつも何かを恐れている。夜が好きになったのはいつからだろう。隠れて身を潜めたいのが本能なのか、それとも違うのか。
朝が来て幸せだと実感できる性格だけは忘れたくないな。
自分が正しい!とずっと思っていられるようになると思っていたのに、何故私はこうしてたまに孤独を感じるのだろう。
親の愛はあったし、何か酷いことをされたわけでもない。思春期に少し考えすぎて彷徨っていた自分はある。
わたしはいつでも不器用に自分の良さを発揮できない。
1人でいる時は尚更強く思う。
大学生になって一人暮らしをして全てをこなしていたあの先輩、今も元気にやってるのだろうか
明日の朝日は見られるだろうか
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最近、私の中で密かなブームがある。
読んでいる小説のお気に入りの部分にマーカーやペンで線を引くことだ。
誰のためでもない、自分のためだけに行っている。
白紙の上に綺麗に配列された文字。そんな美しい文面に自ら汚い線を引いてしまうなんて
マナーの厳しい小学校時代の担任が見たら「はしたない」と言われてしまいそうだが、これはこれでいいのだ。綺麗な本に自分勝手に線を引くなんて、少しの罪悪感が生じて何だか清々しいではないか。
それにわざわざ感動する箇所だけをくり抜いてメモ帳に書き写すような几帳面さは持ち合わせていない。まさに大雑把田舎女子大生(20)にうってつけの技法である。
この本のここを人に伝えたい!という感情が、読んでいてどうしても湧く生き物なので尚更だ。忍法記憶ラインの術。
しかも現状、こんな私の謎論に耳を傾けてくれる少数派の意見はかなり重要視するべきであると思う。そんな貴重な意見交換会の時のためにもやはり、加色して覚えておきたいのだ。
しかし唯一の難点といえば、某買い取り兼古本屋に持っていけないということである。
所々の文章にカラフルなラインが引かれた本を誰が買うだろうか。
ましてやどこのどんな人間が引いたかもわからないのに。
私はそんなこともあろうかと、手放したくないと本気で思った本にだけラインを引くようにしている。私にしか実感できない謎ラインと、この頭の足りない私が認めた特別視されるべき本というお墨付き感がその本の価値を一層際立たせてくれる。と思う。
恥ずかしながら、私が将来ヨボヨボのおばあちゃんになってもそれは続けたいことの1つである。
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高校一年生の時に同じクラスだった女の子と、久しぶりにご飯を食べた。
ご飯の後は普通に解散かと思ったが、当時通っていた高校の道を数年ぶりにドライブしようという話になって 車であの長い坂を登った。
高校時代毎日登っていたあの坂を越えると、文理の子たちが通っていた大きな玄関はなくなっていて そこには瓦礫の上に乗ったブルドーザーが密かに佇んでじっとしていた。
その横に新しく建っていた校舎は縦長の長方形で
痛そうな豆腐のように微妙な存在感を漂わせていた。
無理矢理地面から減り上がってきたかのような馴染みのなさに対して、昔を思い出せば出すほど記憶の中のひとつひとつが優しくて柔らかなものだったと痛感する。
後輩と会った講堂の女子トイレ。
自由すぎて何でもできそうだった先輩と花火をしたりカラオケ大会をした北館4階、軽音部の部室。
今ではもう無いものが多いような気がすると、胸がぎゅっと苦しくなった。
今は生存確認のできないマート。部員みんなで行った菊川のお祭り。
菊川という街は、私の青春そのものであり
時間も 私の中ではあの時のまま止まっている。
街が変われば変わるほど、心に刻まれている思い出が投げ出してしまわないか不安になる。
汚いラクガキだらけの私のロッカー、まだ生きてるかな〜
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虎視眈々 という言葉がある。
その名の通り、ひたすらに物事が進んでいくということなのだろうか。
月と君
夜中に2人で散歩。
夜空と月をバックに彼がタバコを吸う姿は、無数の星よりも輝かしくて絵になるほどに凛としていた。私がもし今有名な画家なら、きっと素晴らしい絵を描けただろうに。
夜中に覚醒しそうな田舎の車は、ナンバーが語呂合わせなところとを見ると
この夜は何だか複雑で、だけど単純そうだなと思った
優しさの棘
嫉妬の感情は、人を狂わせる とよく人は嘆く。
切ない気持ちと、今私が置かれているこの「社会的地位」はそもそも世界が違う。
悪く言えば自分に都合のいいだけのことを言っている。
好きなことや好きな人に囲まれるこの毎日は、きっと自分にとっていつも存在価値を大きくしてくれるものだと思うのだ。
そしてそれと同時に、「束縛」「特別感」「嫉妬」もまた同様に生まれてしまう感情である。
でも私はそんな日々のこと、可もなく不可もないような毎日よりよっぽど意味を持つと思う。本当に大切なものは何なのか二十歳の私にはいまだにわからないけど、この無意味な毎日を感慨深いものにさせてくれることだけは間違いないのだ。
いつだって人の情緒や変動はわからない。仮にわかったところで100の共感もできなければ1の反論の余地もない。そうでなくては個性は無くなってしまうからだろう。
だから十人十色という言葉が存在するのだと思う。
簡単に物事が進めばいいのにいつも何かあってほしいと考えてしまうのもまた、人間の魅力的心理なのだろうか。
十分生きて、あったかい何かに包まれたまま最期を迎えるのも悪くないのかもしれない。
厨二
にゃんたこ先生の本に、「私はバレンシアガのスニーカーが嫌いだ」と書いてあった。
私もグッチの帽子が嫌いだ。
みんなの言う可愛いとは、本当に誰にとっても可愛いのだろうか。本心なのか、集団心理なのか。
日本人はとても流されやすく単純。しかし繊細で考え込んでしまいやすいらしいが本当にその通りだと思う。
そんな中私も人に流され、周囲に揉み潰されながら生きているので自分を見失うことが多々ある。
誰かといる時は必ずと言っていい程強がりになる。誰よりも繊細な心を隠して、これでもかという位に強がる。
誰かに選択を迫られた際、「よきにはからえ」状態になる。これだからめんどくさい。
もういっそ他国民族にでもなって、あることないこと全てに身を任せて生きたらきっと楽なのかもしれない。
なのにそんな環境下でさえ私は何かに不安を持ちながら生きるだろう。
「これ本当に食べれるの?」とか
「お風呂入らなくていいの?」とか。
日本人の代表は、もしかしたら私かもしれない。